踏みだすべき一歩 なにをえがく?


 
 

人の歴史それすなわち戦いの歴史。

戦いの背景に何があったかまでは教科書には載っていない。

 
 

どうしてそうなったのか?

どうやっておさまったのか?

 
 

知りようのないことは、後の歴史書などを読み解きながら想像するしかない。

 
 

疫病や飢饉や自然災害についても同じ。祖先がどうやってその危機を乗り越えたのか想像するしかないんですよね。

 
 

どんなに医療が進歩していても、新しい疫病を前にしては、限られた選択肢のうちからどの道を選ぶか、しかない。今はじっと堪えながら、できるだけ急に広がらないよう時間稼ぎに徹するしかないというほぼ一択の状況だけど。凹まずにがんばりたいものです。

 
 

行政のあり方や、教育のやりかた、働き方、社会とのかかわり方、そして、時間の使い方など。いろいろ冷静に見直すきっかけにもなると思うので、一人一人が、ここで何かしら一歩踏み出してみるというのもいいんじゃないかと思います。

 
 
 

というわけで。

前にも書いたことあるような気がするけどまた書きます。

 
 

絵の題材にした、ある「神話」について。

 

北海道はあたらしい土地で歴史が浅いなんて言われがちですが、そんなことありません。

蝦夷(北海道)にはもともと先住民族であるアイヌの人々が暮らしています。

あとから、和人も入ってきて住み始めました。

 
 

松前藩が徳川幕府公認となったのは1602年のことですが、後から来た和人によるアイヌ迫害はそこからぐんと加速していきます。1457年コマシャインの戦い、1669年シャクシャインの戦いなどよく知られているかと思います。(もともとそこに住んでいた人々を居住区から追い出して土地を取り上げるだなんてひどすぎるけど、実際にそれを実行した人がどんな心持でそうしたのか、想像できます?)

 
 

1666年、円空さんが蝦夷に来ました。

ちょうど各地に新しい寺社を作っている時だったということもあり、円空さんは3年も滞在して多くの仏像を残していったそうです。北海道の木古内という町の佐女川神社のご神体も、このときに円空さんが納めていったものであるようです。

 
 

1758年には幕府によって「同化政策」が布かれ、アイヌ文化は完全に否定されます。同化を強要されるなんてどう考えても承服しかねることだけど、そんな人権侵害が今からわずか260年前のその当時、実際にあったことです。住んでいた土地を追われたアイヌ男性の多くは雇われ労働者に、女性は入植者のものにされ、子どもはアイヌ語を禁じられ隷属化がすすめられます。

 
 

1789年にはアイヌの最後の抵抗ともいえるクナシリ・メナシの戦いと呼ばれる大きな蜂起があったものの、すぐに鎮圧されてしまいました。それまでちょいちょいあった小さな蜂起すらも以降なくなってしまいます。

 
 

そうやってアイヌが無力化されているうちに、蝦夷にはロシア人の影がチラつきはじめます。(ロシア、近いんですよね意外に)

 
 

ロシアのことが気になってしかたない幕府は、蝦夷を直轄にします。一時はゴローニン事件などいろいろ経て緊張関係が緩んだかに見えたものの、水面下で外国人勢はじわじわ増えつづけます。それで、ロシア関係の不安を拭い去れない幕府は、1820年代あたりから「とにかく蝦夷に和人を増やす」ことで不安を解消しようと試みます。

 
 

ところが。

大々的に入植者を募り、和人急増計画を推し進めているタイミングで。

 
 

1831年から数年、気候に恵まれない年が続きました。開墾したての土地に不作つづき。交易経済に頼り切りな上、おまけに体制が古くなって汚職が横行しはじめるという始末。民には負担だけが増していくという三重苦。苦しい状況に民衆の信仰心も薄れ、寺社は求心力を失っていくばかり。

 
 

このままではピンチを乗り切れず地域住民と共倒れになる!と神主さんや長老たちは頭を抱え、寄り合いをひらいて知恵をしぼり合うことになります。

 
 

そうして「神話」が練られ、「祭り」という地域の一大イベントが企画されることになります。祭りに盛り上がることで民衆の心はふたたび結集し、協力関係を強めることでピンチを乗り切れたようです。

 
 

佐女川神社にまつわる神話も不思議なもの。

ある晩神主さんが、サメに乗った女が現れる夢をみたのだそう。「これはお告げに違いない!」と確信した神主さんはご神体を抱えて海で禊ぎを行ったというお話。海の波にバシバシ打たれながらの「禊ぎ」ってなかなかのインパクトですよね。そして実際その地域では、その神話をベースに祭りを実行したことで2年後にきた「天保の大飢饉」を難なく乗り切ったということです。

(1833年から1837年頃まで続いたとされる天保の大飢饉では多くの犠牲者が出たけど、行政の対応によって一人の餓死者も出さなかった藩もあったようです。システム改革だとか心がけだとかによっても、未来って違ってくるものなんですね)

 
 
 

ところで。

不思議で面白いなと思うのは「なぜサメ?」というところ。

 
 

「禊ぎ」の部分ならなんとなくわかる。古事記の中でイザナキノミコトが黄泉の国から戻った後お清めのために行った記述があるので、「厄払い」のような意味合いで入ったのかなと思います。(でもイザナキの場合は「イヤな醜女(奥様)キライ。」的なことを言いながら禊ぎをしてるから、ちょっと違うけど。)

 
 

「サメ」は?

その地域で食用にもしていたわけでもない、ゆかりの深い動物でもないのに「神獣」っぽく選ばれたその理由はなんなんでしょう?(食べたりしてた人いたのかな?)

 
 

どうしてなのかはわからないけど。

でも、わからないから不思議で面白いですよね。

 
 

これはわたしの勝手な想像だけど、なんとなく「サメと女」という取り合わせが「クマと女」に似ている気がします。

アイヌのカムイ信仰では、クマにはクマ神が宿っていると信じられており、大切な存在なのだそう。イオマンテという儀式があって、その儀式の日を迎えるために担当者のアイヌ女性は、赤ちゃんクマを自分の子どものように世話し、大きくなるまで大切に育てるという風習があったのだそうです。

 
 

「サメに乗った女が夢に現れたので禊ぎを行った」というお話が、日本の神道とカムイ信仰がクロスするようなかたちでできた可能性もなきにしもあらず?!と勝手な想像をしはじめると、歴史書のページをめくる手もちょっと熱を帯びてきます。人の歴史は戦いや迫害の歴史だけじゃないって思いたいしね。

(でも、本当にとくに何の根拠もないただの想像ですので。念のため。)

 
 

美術に限ったことでもないですけど。

疫病との戦いというピンチに際し、いま、思い描いて実行に移すべきことは何か。

一歩踏み出して考えてみるのもいいかもしれません。

 
 
 
 
 
 


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